
今も尚、突っ走る『 伝説 』がある―。
阿波踊りの起源には、いくつかの通説がある。
そのひとつとして、1585年四国平定で戦功のあった蜂須賀家政は、豊臣秀吉から阿波一国約19万石を賜り、父・蜂須賀(小六)正勝とともに拠点となる城を築いた。
1587年
徳島城の落成で家政は、築城に従事した大工らをねぎらうために祝儀として酒をふるまい、さらに城下町にも酒をふるまったことから、町民らは狂喜乱舞した。
旧暦の7月15〜16日の両日、2日間にわたって踊り狂い、これが阿波踊りの始まりという説がある。
しかし、どのような説があっても我々にとって阿波踊りの起源は問題ではない。
現在、阿波・徳島では、その者たちの集まりを「連」と名づけ、踊り子達を「天水」と呼ぶ。
その「天水」の中でもひときわ目立つのが、“苔作”である。
“苔作”の看板には、「連」と言う表現は無い。
なぜかと問われても答え様が無いが、“苔作”の根本に「組織に属さぬ」という思いがあるからかもしれない。
俗に言う組織に属す者たちを「連」と位置付けはしないであろうが。
そもそも“苔作”は、前世の「小六連」崩壊によって、侠気(おとこぎ)ある者だけが集まり発足した。
それが、
の始まりである。
徳島の街角に大音響と共に、一斉に人集りが出来る。
その輪の中には、紅白の法被を着た天水達。
腰を低く落とし、背筋を伸ばした姿勢で、華麗なうちわさばきを見せる男踊り。
大胆に歯切れよく揺れる女踊り。
大音響の打楽器だけの派手な鳴り物。
その強烈な個性から「異端児」「無法集団」と呼ばれもする。
1968年、わずか9人での発足。
しかし、周りのどんな「連」にも見劣りすることなく一際、目立つ存在であった。
その存在が一般に周知されたのは、11人となった翌年(1969年)であろう。
発足が、お盆直前だった為に鳴り物が間に合わずに鉦の代わりにフライパンを持ち出し、叩いたのは有名な話である。
とにかく、純粋に踊り好きばかりが寄り集まった集団である。
“苔作”の思想には、「枠にとらわれず“粋”な男を演じる」と言うのがある。
発足当初、鳴門市阿波踊り振興協会に所属していたが、協会と言う枠の中に嵌りきれる存在ではなく早期脱退。
その後、現在に至るまで組織には属さず独自の活動を続けている。
しかし、その活動も決して安泰では無かった。
そのひとつに人材の確保には、一番苦労しているであろう。
単に“阿波踊り”ではあるが、侠気が勝るだけに練習も厳しく、なかなか続けることは大変である。
1年の内のわずか4日間という限られた期間にかける情熱は、
真剣だからこそ厳しく、純粋だからこそ拘る。
その思いを理解していくのは、相当の努力と根性が必要である。
“ 一生を 棒に悔いなし 阿波踊り ”
その言葉が意味するように、信念とプライドを持ち、命を賭け、全てを投げ出し限界に挑戦する。
それが、“苔作”である。
発足後、先代からは一代限りでの活動と聞かされ続けていた。
その思いには、阿波踊りに掛ける情熱の凄さをも感じる。
それは、一代限りで燃え尽きるがの如く、その信念は徹底していたからである。
しかし現、連長以下役員の意向もあって1992年、後継者育成が始まった。
厳しい規律、厳しい練習等で連員もなかなか増えなかったが、信念を貫いたからこそ現在の“苔作”となった。
発足から40年、新たなる“苔作”の誕生である。
伝統芸能や郷土文化としてではない阿波踊り。
“苔作”独自の思想・理念により大締め太鼓、吊り下げ太鼓を阿波踊りとしては創めて取り入れ、面踊り・傘踊りをも創作。
誰に何を言われるではなく、全てが“苔作”からなのである。
これからも続く!
それが、
である。
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